カタルシスをもう一度

カタルシスを繰り返し得る為の試みです。

【夫婦とは】同居人という言葉の意味、他人であるという距離感とは

配偶者の呼び方

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この記事を見て思っていたこと。

 

 

僕は結婚してまだ1年足らず。同棲を5年続けての結婚だった。ちなみに仕事を退職して無職状態での結婚であり、僕としては相手の親や親族、周りの友人達が、僕が無職であることに何か言ってくるのではないか、とワクワクしていたのだが、そこに触れるのは腫れ物に触る様なものか何かだと思っているのか?と思うくらい特別何もなく、がっかりした。そんなことはどうでもいい

 

同居人という言葉

 

同棲を始めた時から、お互いに「同居人」と呼んでいる。

結婚してからも他人に話す時は基本的に同居人と言っているし、公の場でTPO的には妻と言うべき時であっても、言える時はロックな精神で(意味不明)同居人と言っている。

 

僕がなぜ「妻」とか「奥さん」とか「嫁」とかいう言葉を使わないのか?

それは、端的に言えばそれらの言葉には「社会的役割」や「ある種の差別」で縛りつけるものを感じさせ、使用することに嫌悪感があるからだ。

 

「妻」や「嫁」は夫婦や家族という社会システム、法律に組み込まれた呼び名であり、人間性を剥ぎ取られた感じがするし、「奥さん」や「嫁」、「家内」においては、字からして「家にいるべき人」みたいな押し付けを感じる。そういう感覚を持ったまま呼ぶのは失礼だし、そう呼んでいる自分自身が嫌なのだ。

 

それに比べて「同居人」というのは余計なイメージを抱かせることなく至極フラットな関係を感じさせる、僕にとっては非常に使い勝手が良く、適度な距離感のある言葉で気に入っている。

 

女性視点ではどうか?

 

僕がパートナーのことを同居人と呼んでいることを話すと「なんでそんな言い方なの!?」と人によっては少しナーバス気味に食いついてくるのは大抵女性である。ちなみに僕の同居人も結婚したい理由は「妻という肩書きが欲しい」というもので、僕にとっては正直、いつから肩書きに寄りかかろうとするヘタレになったのだと罵倒したくなるものだった。

しかし、これらの件から察するに、一部の女性にとっては、一人の男に所有されること、妻等の肩書き(一種の社会的ステータス)を獲得することに価値を見いだしているのではないかと思われる。その意味では男性も同じかもしれないが、女性に比べると大して気にしていない人が多いのではないだろうか。

 

他人であるという距離感

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このまとめにもある様に、人間関係においては誰もが他人であるということをその都度確認することが大事なのだと思う。夫婦、家族、友人、仕事の同僚等、付き合いが長い程、距離が近いほど、他人であることの境界線を越えて過干渉になってしまう。

 

僕は人間関係のトラブルのほとんどは過干渉にあると思っている。親子関係においては、親が子供に対して、自分の分身であり、所有物であり、他人ではないと思っていることが不和を生み、あまりに長引けば取り返しのつかないことにもなりかねない。

 

親としては、特に母親としては生まれる前から自分の体の中で育てていたという体感があるので、その気持ちが強いのはある程度まではしょうがないのかなとも思う。それでもどこかでお互いに精神的な分離を果たすことが必要だ。

 

終わりに

 

なるべく他人に期待しないこと、自分の願望を押し付けないこと。しかし、だからといって何でもかんでも自分でなんとかしようとするのもやめたほうが良い。僕の経験上、他人に対する期待水準が下がりすぎると、他人に頼るという選択肢自体が自動的に脳内却下され、自分だけが苦労しているという被害妄想や、自分だけの力でなんとかしなければという脅迫観念が強化されていく。それが一定のラインを越えると、精神的に病んでくる。

 

逆に期待できる人が少しでもいてくれること、少しでも期待に応えようとする態度や行動を示してくれる人がいることは相当幸せなことであると思って良い。誰もが常に期待に応えてくれるわけではないし、期待はずれに終わった時に執着せずに切り替えられることが大事であり、どうあっても期待できない人や環境からは距離を置くしかない。

 

ちなみに僕は退職する前から買い物、ゴミ出し、風呂掃除、洗い物等のほとんどの家事を務め、退職してからは夕飯の支度までこなし、料理の腕も上がる一方である。同居人は僕の期待に応えることはほぼなく、毎晩のように僕の安眠を妨げる為に、体内にサブウーファーでも仕込んでいるんじゃないかという程のいびきを響かせている。にも関わらず、僕は同居人に対して怒鳴ったり、悪態をついたりといったこともなく過ごせている。要するに、この記事で僕が一番言いたかったのは、僕はそれくらい仏の慈悲を持った人間であるということを覚えておいて欲しいということだ。